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どこにも喧嘩を売るつもりはないんですが、録音された音楽は、やっぱり死体だと思います。それを防音sた自室で銅線1本1本にまで気を配ったアンプやスピーカーなどで目をつぶって聴いてる状態は、もう完全にりっぱな死体愛好家に違いない。気取って言えばネクロフィリアかな。自然界というか生物としての人間には視覚と聴覚があって、その片方だけを極度に敏感にしてひとつのまとまった世界を味わおうとするという行為は、どうしたって変態です。病といってもいい。
その昔、映画には音が無くて。やがてそこにオーケストラを呼んで来て音楽がつくことにはなりますが、無声映画はやはりある意味、視覚だけを極度に敏感にして暗闇に輝き移ろう光や影を堪能するこれも、変態といって良いと思います。 しかし、デジタル技術というヤツの普及によって、音声信号と映像信号を同時扱うのはなんでもないことになって。しかも物質的なメディアに拘束されずにシンプルな電気信号として扱えるようになったので、いまや楽曲を音と映像が一緒に楽しむのは当たり前で、さらにそういう楽曲を数千曲を持って歩いたりすることも簡単です。それらの音響や映像は、街のノイズや風景や光、風とともに流れ、ゆらぎ、ときに輝きときにくすんでさまざまな夾雑物とともにまるで呼吸のような、あるいはまぶたの裏の残像のような日常の経験のひとつになります。人間の五感にとって、これはすこしだけ自然なわけですが、ここでその5感の前に鮮やかに立ち表れる音楽が、ライブのパフォーマンスとしての音楽です。これは命に溢れている(カラオケで口パクでなければね笑)。あるいは、世界中の夕餉のあとで仲間や家族が集って歌い踊る個々のライブの場も忘れてはいけません。デジタルによって、ジュノサイドの後のように大量の屍をいつでもどこでも味わえるようになったために、古来からの音楽が発生する現場に、ただならぬ生命力が甦ったといっていいかもしれません。 でも、死体も美味しいんだよね。変態の快楽も捨てがたい。一度知ってしまった快楽を、変態たちはさらに工夫して、より強くより純粋にその強度を味わおうとするに違いない。私自身も。 # by jazzharu_konno | 2011-07-07 14:21 | 音楽
イヌイットの言葉には「白」を表す単語が50以上あると聞いたことがあります。雪原の状態や変化を細かく言い表すためだそうです。確か日本の漁師も海の様子を表現するのにたくさんの言葉があるとか。
で、気になってるのが「カワイイ」です。あーまた頭の固いジジイのアナクロなクレームかよ、と思われちゃうだろうなー。 しかしきっぱり言います。なんでも「カワイイ」で済ますのは貧し過ぎる。というのも、言葉が体験を、経験を、感受性をつくるからです。有名な話では、「肩が凝る」の「凝る」という表現は夏目漱石が新聞小説で書いてから広まったもので、それまでは肩が痛いとか張るとかだった。でも「凝る」という言葉を知ってから肩は「凝る」ものになりました。日本語の「Umami(旨味)」という言葉が輸出されるまで西欧人は味わっているのに彼らの味覚には「旨味」というカテゴリーは存在しなかった。「Cool」という形容詞はある「態度」を生み出したのであってその逆ではない。「被写界深度」という言葉が普及するまで多くの人はその「ボケ味」の存在に見ているのに気づかなかった、というか見えなかった。事象が先で言葉が生まれるのではなくて、言葉が事象を生み出すのです。 「美しい」「きれい」「色っぽい」「セクシー」「愛らしい」「瀟洒」「センスがいい」「シブい」「鮮やか」「ブリリアント」「華やか」などなど、ファッションや小物、料理、音楽、植物、動物などなどへの形容詞を、私たちは死ぬほどたくさん持っています。といういうことはその素晴らしく素敵な「感じ」の種類や性質を、私たちはそれはそれはたくさん豊かに経験できるということ。 なんでも「カワイイ」としか言わなくなると、こういう素敵な「感覚」や「経験」を体験することもなくなり、私たちの心や身体から「感覚」や「経験」がどんどん消えていってしまいます。それはつまんないし、気持ちよくないよ、と思うのです。 で、広告などのコピーつまり文章をつくることを仕事としている我が身を振り返ってみて、まずは自分が仕事で適材適所の形容詞を、わかりやすく、面白く、心に響くように使わないといけないな、と激しく反省したのでした。これはマジに日々精進しなくちゃ。 # by jazzharu_konno | 2011-06-20 02:51 | Business
ふと振り返って、自分が何に興味を惹かれるか考えて気づいたことがあります。一気に説明するのが難しいんだけど、哲学っぽく定義すると、
「有限個の要素から無限の表現が生まれる現象」 ということに尽きます。たとえばどんなことか。(たとえば近代西欧音楽だと)12個の有限の音から無限の楽曲や演奏が生まれ続ける「音楽」、(たとえば日本語だと)50音の有限の音から無限のささやき、会話、文章、文学、理念が生まれる「言語」、(10進法の整数論だと)10個の整数から無限の秩序が生まれる「数学」、4つの塩基からほぼ無限の進化形態が生まれる「遺伝子」などなど。もちろん5音=ペンタトニックの民謡やブルースでもスケールが2オクターブにまたがるインド音楽でも、26文字の英語でもいいんだけど、とにかく有限の組み合わせからほぼ無限の表現が生まれつづけている、というコトに、自分はものすごく惹かれます。 だからなんだ?と問われても、ただ、それだけなんですが。ものすごく美しい楽曲に出会ったときに、その美しさそのものに打たれながらも、同時に、えーたった12音しかないのに、こんなすごい旋律や和音、リズムが、今まで生まれずに、今こうして新しく生まれたんだろう。作る事ができたんだろう、とう事実にも、感動しちゃうのでした。 だって、有限から無限が生まれる、生まれ続けている、って、なんか希望でしょ? # by jazzharu_konno | 2011-06-14 21:57 | 妄想
広告は、大量生産大量消費の20世紀の産業だということが20世紀末に言われていました。そして2011年現在その通りになってきています。少量多品種生産、消費というのが広く実現し、人々の交流がWebによってこれまでの決まりきったメディア経路を軽く飛び越して自由に広がってゆけば、「広く告げる」という手法はのただOne of themになる。というか、すでにそうなっています。
しかし、だから高度成長が終わって久しい現在、業界はみんなネットを中心に再構成されればオッケーなのさ、という訳には行かないようです。おそらくその理由は、私見&当たり前のことですが、高度成長期の(日本の)広告代理業がその利益構造の主軸を媒体の売り買いに置いて来たツケが、まだまだ回りきっていないからじゃないかと思います。それはまるで、建築設計事務所が不動産事業に手を出して濡れ手に粟という甘い汁を吸って抜けられなくなってしまったような不健康な状態です。土地に似て需要で価格が決まる媒体で利益を出すために、そもそもの売り物のアイディアや企画を金にする努力やシステムづくりを怠ってしまってきたツケは、いまだに業界全体を苦しめているようにみえます。 1990年代、外資系クライアントの仕事で世界各国の都市から制作の相みつを取らなければならない経験を何度もしましたが、その時点では東京は世界で最も制作料金が高い場所でした。しかし一方でクリエイティブ料は相対して低いものでした。クライアントは安くていいものを求めて当然です。そしてWebでは特にそうですが、結果が数値でシビアに評価されるようになりました。 でも、これはチャンスですよね。発受注契約や作業前の見積もり、支払いサイトの明確化など、地道な改善をコツコツとやってゆく。ひとつひとつの仕事に丹精こめて的確で人の心を動かすクリエイティブをつくる。一度にすべてを変えることはできませんが、目の前の仕事から出来ることをやっていきたいと思います。代理店にいる時はこうした事を「プラン」として考えていました。フリーランスになってみると、こうしたチャレンジは実務なのでした。 # by jazzharu_konno | 2011-06-10 01:51 | Business
フェリー二の初期の作品を観たいとおもって、TSUTAYAにいったら、『青春群像』『カリビアの夜』などはVHSしかなかった。それだけじゃなくて『8 1/2』も『魂のジュリエッタ』もDVDではなかった。
すこし前に、借りようとしたジョン・カサベテスの『こわれゆく女』や『フェイセズ』、小栗康平の『死の棘』もDVDがなくてVHSのみでした。 非常にがっかりしてしまいました。あまりにがっかりしたので、ひさびさにここに書き込んでしまうのであります。 # by jazzharu_konno | 2011-02-10 17:08 | 映画
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